2013年05月06日

古典建築探訪_龍安寺 石庭の秘密 #03 少ない対称物に求められる高いデザイン性  右京区/京都市


方丈広縁より、石庭に5組ある石組のひとつと背景となる築地塀を見る。
この塀は土に菜種油を混ぜ、強度を高めたもので、この色もそのことに因るようである。
(絵は#02と入れ替えました)


龍安寺の石庭が他と違って、いつまでも鮮明に心に残るのは、この簡素さ・
シンプルさの為であろう。
この表現にどの様に至ったかは、詳細は明らかではないようである。

とにかく、しばしたたずみ、自然とボッと見入ってしまうのである。
特に謎解きや、定まった見所があるわけではないので、こちらも取り立てて
構える必要がない。あれこれ見逃すまいと忙しく、視線を走らせる必要もない。
近くに行くことがあれば、また立ち寄ってみたいと思ったりもする。

抽象画のような性格なのであろう。しばしの間、現実を忘れ、抽象的とも言えるであ
ろう、その禅の世界で満たされた空間の中に身を置けるのが、心地よいのである。

抽象画等もそうであろうが、その構成、バランス、色使いなどに、特に優れた
デザインセンスが必要であろう。このような石庭の場合、成長の早い樹木等は、
景色の構成・バランス等に影響するので避け、長期にわたり変化しない石や砂、
苔類などが好まれるのだという。

最後に、この石庭の重要な背景とも言える、黄色土の築地塀についても忘れる
ことはできない。
大海に力強く点在している島々の視線の先に、あかね色の夕焼けの空が見えて
いるようで、視線を白砂と石組の方へ押し戻す(下げる)力があり、石庭全体を
際立たせ、引き締めている、実は影の大切な功労者である。


ラベル:京都 東山文化
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2013年04月29日

古典建築探訪_龍安寺 石庭の秘密 #02 明確なテーマをもたないこと  右京区/京都市


方丈広縁より、広縁付近の雨落溝を見る


先の#01で庭園の広さのことに触れたが、その面積が縮小してゆく傾向は、
その後の江戸時代の方が大いに流行し、そして茶室の庭(露地)や坪庭へと
変化していったようである。
しかしながら、全ての庭園が狭くなってきている訳ではない。それ以降現在ま
で、回遊式の広い日本庭園は多く造られてきている。

回遊式日本庭園の最も一般的な傾向は、美しい自然風景の再現であろう。
そのテーマのひとつとなるのが、例えば、水の変遷(生涯)のようなことでは
ないだろうか。つまり、大概は奥深い所にひっそりとある源流。これは小さな
滝で表現されたりもする。これがサラサラと流れる小川となり、下るに従って、
急流へと変化し、川幅を広げ、やがては穏やかな水面を見せる大きな池(大海)
へと至る。その間には、橋が掛り、水辺が現れ、池では小舟等が見られたりも
する。これは現在まで続いている日本庭園の最も基本的なテーマであろう。

禅宗寺院などの枯山水庭園でも、実際には水は流れてはいないが、石や砂、
ごく少数の樹木等で川の流れを表現していて、水の変遷をテーマとしているも
のは多い。
龍安寺石庭は、その狭小化の傾向と共にこの枯山水を、更に深めたものであ
ろう。つまり、水の変遷のような、ある意味では分かりやすいが、ともすれば大
げさで、複雑(乱雑・散漫)になりかねないテーマとは決別する方向に踏み込
んだのである。定まった分かりやすいテーマをあえて持たないことで、見る者
に何を伝えんとするかのひとつの優れた成果が、この石庭の魅力であろう。

テーマという束縛から解放されることで、複雑(なものを)だったものをシンプル
に表現することができ、自由なデザインが可能となる。そのことが見る者の心を
捉える魅力となりうることに気が付いたのだ。
また、この簡素で清々しい表現が、深遠な禅の世界と上手く重なり合ったことも
見逃すことのできない、幸運な取り合せ(めぐり合せ)といえよう。


ラベル:東山文化 京都
posted by pao at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築探訪_龍安寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月22日

古典建築探訪_龍安寺 石庭の秘密 #01 広さのこと        右京区/京都市


方丈広縁より、南に広がる石庭を見る

石組と白砂だけの龍安寺石庭は、なぜこれほどまでに、人の気を引くのか。その秘密は何だ
ろうと思った。
最初、この徹底したシンプルさについては、禅の精神のようなものを表現したのだろうと頭に
浮かんだ。
しかし、しばらくして、こうも考えた。それなら龍安寺以外にもこの様な石庭が多数あってもよ
いはずではないかと。禅宗庭園や枯山水庭園は数多くあるが、龍安寺ほど徹底しているもの
は他では見られないのはなぜか。どの点が優れているのか。なぜ人の気を引くのか、それが
少しでも知りたいと思った。

鎌倉時代の初め、西暦約1200年頃、栄西は宋に渡り禅を学び、帰国して臨済宗を開いたと
いう。
西芳寺において、1339年、禅僧、夢窓疎石(国師)が招かれ、池泉回遊式の大きな庭園を
造っている。この西芳寺庭園は後の室町時代の庭園に大きな影響を与えているという。この
庭園にも既に山腹に枯山水石組が見られる。
この庭園に限らず、こういった日本庭園の大きなテーマは、多様な自然の風景の縮図という
ようなことであろう。

鎌倉時代の末期から南北朝の争いにかけて、京都のまわりを戦場とした戦いが繰り返され
た為、多くの人々が難民となり、仕事を求め京都の町に流れて来て、河原に住みつくように
なったという。
しかし、そうした人達の中から、芸能や石組等の技術に長けた、阿弥(あみ)という名を用い
た人達が活躍し出した時代でもあった。

室町時代後期に起きた、応仁の乱(1467〜77)は京都が戦場となり、その後の社会の混
乱による経済的な困窮から庭園面積の狭小化と、それに伴い石組が重要視されるようにな
るという。西芳寺のような地形に起伏を伴う広い庭園ではなく、塀で囲まれ、平地に平面的
で奥行きの浅い、横長の庭園スタイルの誕生である。
龍安寺石庭が作られた年代は、諸説あるようであるが、まさにこの頃と思われ、仮に1500
年頃とすれば、禅宗が日本に伝わってから、約300年後の頃で、応仁の乱以降の混乱か
らくる、庭園の狭小化や石組重視等の影響もあるとみてよいのではないだろうか。

更にこの時期は、東山文化(水墨画、書院造り、禅宗寺院・枯山水庭園、茶の湯、活け花な
ど)の誕生した時代でもある。足利義政の通称銀閣寺(鹿苑寺)内の東求堂・同仁斎(初期書
院造り)もこの頃に作られている。

新しい、今日の日本的と思われている生活文化が生まれ始めた時代であり、簡素の中に美
を見い出そうとする、この東山文化の高まりのまさに渦中の事であったろうと思われる。


ラベル:京都 東山文化
posted by pao at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 建築探訪_龍安寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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